01その背中に近づけますように

はんぶんこ はんぶんこ

――話しかけないでほしい。

拒絶の気持ちをあらゆる毛穴から放出しながら、私は PCモニターを強く睨みつける。時刻は、二十一時。すでにフロアには、課長と私、そして、今日の私の勤務時間の大半を奪い去っていった新人しか、残されていない。

「最悪、明日の朝までにできてなかったらさ、俺が巻き取るからいいよ」
課長はいつもよりさらに柔らかい声で、諭すように私に言った。目尻に浮かぶ皴を見ると、疲れているのは私だけじゃないことを、思い知る。
「いえ、もう、すぐに終わるので」
私は手を止めることなく、優しさを突っ返す。これ以上、課長にまで迷惑をかけるわけにはいかない。今だって、席に残ってくれているのは、この資料が完成次第、すぐに承認を出せるようにするためだろう。

「あの、僕は、できること、ありますか?」
今日の残業の要因となった新人が、震えた声で言った。

――本当は全部やってほしいってば! なんで今日もこんな遅くまで! 私が働かなきゃいけないの!?頭に浮かぶ数々の悪態を全てタイピングしてから、急いでデリートボタンを連打して削除した。今、自分に出せる一番高いトーンで、「特になさそうだから、帰って大丈夫だよ」と伝えた。


退勤間際、ナヨナヨと謝った新人に、舌打ちしそうになる。頑張りどころを間違えているから仕事が増えているんだし、まずはその、なんでも「頑張る」で解決しようとする姿勢からどうにかしてよ。喉元まで出かかった言葉をどうにか飲み込んで、「お疲れさま」と返す。これでようやく、作業に没頭できる。



「あれー? 遅くない?」
オフィスのゲートをくぐって、社員証をしまおうとしたところで、懐かしい声を聞いた。陽気なようでいて、プレゼン時には強い説得力を発揮する、頼もしい声。私がまだ新人の頃、教育係として付きっきりでいろんなことを教えてくれた、あの先輩の声だった。

「どうしたの? 何か、ヘマでもした?」
相変わらず軽いノリで話しかけてくるけれど、こちらの表情の変化をきちんと読み取っていて、ピンチの時はすぐに助けてくれる。ああ、私はこんな人になりたかったのだと、急に思い出した。
「あ、いや、ちょっと、いろいろ抱えちゃってて」
気付かれぬように目を逸らしながら言うと、先輩は「ちょーどよかった」と返して、私を飲みに誘った。もう二十二時を過ぎていたし、明日も早かったのだけれど、拒否権は最初から用意されていないようだった。

「後輩教育って、ほーんと大変だよねー」
先輩は大ジョッキのビールを一気に半分近く飲み干して、そう言った。赤提灯が店内にまで並んだ、大衆居酒屋。新人のときに女二人でこの店に連れてこられたときは驚いたけど、今となっては、すっかり居心地良くなった場所だ。先輩と二人でまた来れる日が来るとは、思いもしなかった。
「もう、本当に大変で。なんか、要領悪すぎて、ドン引きっていうか、まじでしんどくて」
「いやー、わかる。あなたもそんな時期あったよ」
「ええ? あそこまでひどくはなかったんじゃないかと......」
「いやー本当に大変だったんだからー! 課長に聞いてごらんよー!」
ケラケラと笑いながら、いつの間にかシーザーサラダを私の分まで取り分けている。この人には、いつまで経っても勝てる気がしない。
「じゃあ先輩も、教育係の頃はすっごいストレス溜まっていたと思うんですけど、どうやって乗り越えたんですか...?」
サラダの乗った小皿を受け取りながら尋ねると、先輩は少し考えてから答えた。
「あー、思い出した。これだ。このイヤリング」
「え?」
「自分へのご褒美しかないよね、もはや。だから私、休日にこのイヤリング買ったんだよ」
先輩が少し頭を振ると、両耳についたイヤリングが、キラリと小さく輝いた。
「なるほどー! 可愛いです。でも、なんでイヤリングだったんですか?」
ジュエリーを率先して身に着けるタイプのようには思えなかった先輩に、率直に尋ねる。私が尊敬するその人は、またしてもビールをぐいぐいと飲んでから、余韻を味わうように答えた。
「あなたが質問してくるたびに、その声に少しでも、意識が向くように、ってね」

いくら尊敬しているとはいえ、いい加減、影響を受け過ぎではないか?自問自答するものの、すでに私の足はジュエリーショップに入り込んでいて、それに抗う意志も、さらさら持ち合わせていない。先輩が着けていたあのイヤリングが、売っている店。

あの夜、先輩は当時のことを振り返りながら、新人時代の私がどれだけドジで鈍臭かったのかを、実に楽しそうに話してくれた。私はそれらのエピソードを聞くたび、封印していた記憶の箱を一つ一つ暴かれてしまうような、恥ずかしさと情けなさで苦しめられることとなった。

なんだ、私も、本当にひどかったんだ。どうしてそのことを忘れてしまおうと思ったのだろうか。過去を美化したところで、事実は変わりもしない。むしろ、自分の後輩の気持ちを、わかってやれない原因にすらなっていた。

そのことを強く反省しながら、私も先輩のように、この耳を、もっと後輩のために使おうと決めた。そして今、先輩が私を思いながらジュエリーを買ったように、私も、一つのイヤリングを手に取る。淡いピンク色のボディが、ぐるぐると渦を巻いている、変わったデザイン。耳に着けてみると、一見ピアスにも見えるそのジュエリーは、先輩のやつに少しだけ似ている気がした。

「あの、これ、ください」

人間、そう簡単には変わらないし、変われない。そんなことはわかっている。
でも、明日から、また、がんばろう。
いつか憧れたその背中に、近づけますように。

文/カツセマサヒコ, イラスト/YOCO

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